スザンナ・クラーク『ピラネージ』(原島文世訳、東京創元社)
http://www.tsogen.co.jp/np/isbn/9784488011116
※出版社からのいただきものです。
スザンナ・クラークは寡作で知られる英国の幻想小説家で、『ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル』(中村浩美翻訳、ヴィレッジブックス, 2008, 原著2004)と本書しか長編小説の著作がない。しかし長編2冊はいずれもファンタジーやノンジャンル文学の賞に多数ノミネートしたり、受賞したりと高い評価を得ている。『ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル』はファンタジーのオールタイム・ベストリストの常連であり、全世界で400万部を突破した大ベストセラーだ。
長編2冊の共通点をむりやり抽出する――現実とは似て非なる超常要素のある世界を、リアルに丹念に描きだし、研究や自分の目的にひたすら邁進する男たちを物語る。
ピラネージといえば、18世紀に活躍した建築家で、緻密な版画作品で知られる。彼の連作には空想の牢獄を描いたものがある。ただし本書は、ピラネージを題材にした小説ではない。主人公の男は自分が誰かもわからないまま、上は雲を突き天空に達し、下は海と繋がる、無数の広間で構成されたありえないほど巨大な館の中で生き延びている。海で獲った食べ物を食べ、干した海藻を寒い時期の燃料にし、貝殻などを髪にあしらい、鳥を観察し、日記をつける主人公の生活はサバイバルとしか言いようがない。広間には巨大な彫像が点在している(なぜかゴリラの像もある) そんな場所で、主人公は彼が「もうひとり」と呼ぶ、生きて会話可能な唯一の男と共に広間群の研究を進め、やがて自分が誰であるかを知っていく。そんな主人公が「もうひとり」に呼ばれる愛称こそがピラネージなのだ。
本書の特色は、まず異常に巨大な広間群を、そこでのびのびと暮らす無垢な男の目から緻密に観察するという「形式」だ。
迷宮や異境をわけもわからぬままにさまようのは小説やゲームでは定番のネタだ。ヤン・ヴァイス『迷宮1000』、ヴィクトル・ペレーヴィン『恐怖の兜』、ホセ・カルロス・ソモザ『イデアの洞窟』、ストルガツキー兄弟『ストーカー』、それにジェフ・ヴァンダミアの『全滅領域』から始まる〈サザーン・リーチ〉三部作もこのバリエーションだろう。しかし、観察者である主人公がなんら恐怖やパニックを感じることなく、広間群で質素ながら満ち足りて自活しているのは少し新しい。ファンタジー版『ロビンソン・クルーソー』の趣もある。
次に、本書は入り混じった虚実で演出する「それらしさ」で読者を幻惑する。たとえば作中で実在のピラネージについての説明はほぼなされない。これに限らず、本の中では説明されず、検索しないとわからない言葉はちらほら出現する。コリン・ウィルソンの名前が突然現れもする。一方で、実在していそうで実在していない人名も出てくる。淡々と、モキュメンタリ―(ドキュメンタリーを模した様式)を思わせる筆致で書かれた探索行に、私はBackroomsやSCPの人気に通じるものも感じた。新しい情報や人物も次々に飛び出してくるので、飽きずにさっと読み終えられるだろう。フレーバーテキスト(雰囲気を演出するための文章)にすぎない部分もあるので、すべての名詞や情報を覚えようとやっきになる必要はない。
悪くない読書だった。自分ひとりのために熱心に記録をつけ続ける主人公の性格や、最後のほうで描かれる異界に魅せられた人たちの様子は、なぜ閉じた世界を描くファンタジーが魅力的かを再確認させてくれる。自分だけの庭、あるいは人気(ひとけ)のない廃園、現実ではない居場所に魅力があるのは当然ではないか? 野鳥とゴリラの彫像にひたむきな愛着をもってなにが悪いのか? なお、巻頭ではC・S・ルイス『魔術師のおい』(〈ナルニア国物語〉)が引用されている。
登場人物がやや類型的(純真で搾取される主人公、マッド研究者でいわゆるQueer Codingっぽい悪役たち)という指摘を英語圏の書評で見かけるが、そこは否めない。
近ごろは諸事情により鬱屈しており、ちゃんとした文章が書けず、書けないことに忸怩たる思いを抱えて日々を過ごしています。書くこと、読むことのリハビリが必要です。そんなわけでここでは気楽に、簡単な感想のみを書くことにします。ウォーミングアップ。